3年生 6月

第27話「キモグラフ」



生理学実験
 さて先月より生理学実験にて「カエル取り競争」が始まったことは既に承知のとおりである。では、これらのカエルを使って一体どんな実験をやろうというのか?
 初夏の昼下がり、生理学実験室の各班の机の上にはこれまで見たこともないようなさまざまな機械が並んでいる。スタンド、注射筒、割り箸に針金をくっつけた棒、各種薬品、金属製の円筒系の妙な機械、部屋の片隅にはバケツに入ったカエルたち・・・。どれもこれも古く、ボロく、補修跡だらけの年代物だ。初めての人がこれらを見てどんな実験をやるのかなどまず想像もつかないことだろう。
 今回行う実験というのはカエルの筋肉を使った興奮収縮連関(筋が興奮して収縮する過程)に関する実験だ。筋肉が収縮するには細胞内外のCaとかNaとかKとかさまざまなイオンが関係しており、それらがどう作用して収縮・弛緩を起こさせるのか、という実験だがそんなこと今これを見ている人達の大半にはどうでもいいことなので、詳しくは獣医学科に入ってじっくり学べばいい。

 さて、この生理学実験というものはえてして「その準備」に最も労力を注意を払わねばならないものである。何事も最初が肝心。ここを怠ると後々必要以上の苦労をすることになる。入学後初日の自己紹介であんまりにハジけすぎるとそのキャラを維持するのに後々必要以上の苦労をすることになる。ぜひここは慎重に、先生の説明・手順書を確認し、頭に叩き込んでから作業にとりかかるべきだ。けして浮かれて背伸びしすぎてはならない。
 まず金属製の円筒状の機械。こいつは「キモグラフ」という。「キモ」が何を意味するのかは知らないが、グラフを描くため古来より伝わる秘伝のマシーンである(図1参照)。まずこのマシーンの円筒部分をとりはずし、紙をまきつける。そしておもむろにドラフト(換気する機械)へ移動する。ドラフト内にはガスバーナーが炎を揺らしている。円筒部をハンドルのついた機械にとりつける。ハンドルをくるくる回すと円筒が回る仕組みだ。すると、何を思ったか、この紙のまきついた円筒を炎に近づけていくではないか! おい、大変だ! 燃える、燃えちまうよ!! 「○×大学獣医学科、実験中に出火、大惨事に!生理学講座教授辞任!」 

 なんてことにはならない。紙を炎にかざしても常に円筒を回転させ、炎と接触する時間が一瞬であれば紙は燃えないのだ。さらに、このバーナーは取り込む空気量を少なくして不完全燃焼を起こしており、温度も低い。しかし今回の実験は紙を炎にかざしても燃えない、という実験ではない。この行動の目的は何なのかというと、紙にススをつけることなのである。不完全燃焼してる炎はいっぱいススをだす。このススを紙全体にたっぷりとつけて真っ黒にするのが目的だ。このスス紙を上手いこと作れなければ先には進めない。円筒の回転が速すぎてもススがうまくつかないし、回転が遅すぎても紙が燃える。実際、燃やすヤツもいるので横には水入りのバケツがかかせない。

キモグラフ装置
図1

 さて、準備ができたらいよいよカエルの出番だ。麻酔をかけて安楽致死させた後、カエルの腹直筋を採取する。脊椎動物であるカエルにも人間のように6つに割れているわけではないが腹直筋がある。当然、腹筋運動などやんないので非常に薄っぺらな筋肉だ。わずかも取り洩らしのないようにせねばならない。さて無事腹筋を採取できたら図1のようにセットする。腹筋が浸ってる液体にいろいろと薬品を入れると筋肉が縮んだり伸びたりして糸につけた棒が動くというしかけだ。で、棒の先がススのついたキモグラフ、こいつはゆっくりと回転しており、棒が動くとススをけずって線をえがき、筋肉の動きをグラフ化してしまうという非常にハイテクなアナログ装置なのである。こうしてできたグラフが図2のような感じになる。これをススがとれないようにニスで固定してレポートと一緒に提出すれば実験は終了である。

キモグラフ装置
図2



 のだが、そうやすやすとは問屋が卸さない。これら一連の作業がパーフェクトに行われれば夕方5時前後には実験は終了する。当然終了した班から順次帰宅できる。しかし、そんな班はごく一部である。半分以上の班は一発で成功することはまずない。実験中にキモグラフのススに接触してススを落としてしまったり(服や顔につくと最悪)、筋肉採取に時間がかかり筋肉がダメになってしまったり、薬品の調整や入れ方を間違って何度も収縮弛緩を繰り返させ、筋肉が疲労して反応しなくなってしまったり、グラフしている最中に棒の先がススから離れて記録されなかったり・・・失敗の原因はそこいら中にあるのだ! ススを作り直したり、薬品を調整しなおしたり、筋肉を採取しなおしたり(1匹のカエルから2本取れる)、別のカエルを使わざるを得なくなったり、いわゆる理系人間なら誰しもが聞きたくもない言葉「実験やり直し」である。やり直しともなると手際はよくなるが、集中力が切れてまた失敗しやすい。この悪循環に陥るとお家に帰れるのはいつになるのやら解らない。
 一班、また一班と実験を終え帰路につく仲間を見ると俄然、焦りがつのる。そしてごくまれにではあるが、最も恐ろしい事態がおこることもある。各班が失敗に失敗を重ね、最後にのこった班がさぁまたやり直しだ、とカエルバケツに行くと・・・カエルがいねぇ!! カエル切れである。本来、きちっと実験を行い、使用する動物数を最小にするのが当然の勤めだが、実験というものは机上の理想どおりには事は運ばないものである。きちんとした結果はまだ出ていないからレポートも書けない。しかしやり直すカエルもいない。果たしてどうすればいいのか? 決まってます。カエル取り再開! 時刻は既に夕方7時に近い。夏とはいえあたりももう赤い夕日に薄暗くなり始めている。しかし! 今から再びカエル探しの旅に出なければならないのだ!! 暗くなって見えなくなる前に! カエルを探し! 実験を終了させるのだ!! 実験終了予定は夜8〜9時とかですかね、ハイ・・・(ちなみにカエルが余った場合は来年のために元気な子をたくさん産んでくれることを願いつつ、学校周囲の田んぼに放します)。

 まぁ、しかしどうしてもうまくいかなかったり、カエル探しがもう無理な場合は翌週の空き時間に実験のやり直しを行うことも許可されている。